
「仙人入門」 程聖龍
この、面白すぎる話の中に、
深遠すぎる思索がある。
――南伸坊(イラストレーター)
上の推薦文と、ばばかよさんの本が
この本に出会うきっかけを与えてくれました。
感謝します。
忍者犬に爆笑です。
ぼくが初めて忍者犬というものの存在を知ったのは
白土三平先生の「カムイ伝」という漫画のアニメでした。
そこに描かれる非情で残酷な世界は
「忍者犬っていうのは恐ろしい生き物なんだな」
と、おさな心に思わせるに十分なものでした。
しかし、この本を読んで、
忍者犬のイメージが180度変わってしまいました。
いや、もちろんすごい犬なんですけど。
今日もどこかの山奥で修行をしていると思うとワクワクします。
第二章からいよいよ「仙術修行篇」。
ここまでくるともはや哲学といえるのでは。
興味深いエピソードも満載の、
笑えて、考えさせられるという、お得な1冊でした。
こうして私は生まれて初めて忍者に会った。
いや、正確に言えば忍者見習いの高校生に出会ったのだった。
傍目に見れば微笑ましい光景だろうが、
じつのところ、私は動物があまり好きではない。
とくに忍者犬には散々しごかれたので、
正直言って犬はもう御免だ。
嘘ではない。犬というのは笑うものである。
無様にひっくり返った私の前で大口を開けて
「もう見ちゃいられない」と言わんばかりの表情で、
笑いながら首を振っていた。
毎度のことでこちらも慣れていたとはいえ、
これがまたじつに小憎らしい顔つきであった。
確かに組手の前に十分に型の練習をさせ、
理論もすべて解き明かしてやる現代的な訓練法から見れば、
こうした教え方は意地が悪いだけでなく、
無意味で非合理な教え方に見える。
しかし長年修行を続けた経験から自信を持って言えるが、
一見不親切なこの教授法はじつは一番親切で「早い」道なのである。
それは脳を意識の座と見る世界である。
己の身体を動かすものは頭脳だけなのだと信じ切って
何の疑問も持とうとしない。
しかし、そうではないのだ。
人は身体そのものにーーー手や足それ自体に、考える力がある。
良いものを「良い」と認識できるのはなぜか?
それは、どこかに悪いものがあるからである。
いくら良いものであっても、
単独でぽつんと存在しているのなら、良いも悪いもない。
ただそこにあるだけだ。
「良い」は「悪い」があって初めて認識が可能になる。
だから何かを良いと思ったときには気をつけなければならない。
なぜならそれは見えないどこかに「悪い」を秘めているはずだからである。
スポーツの世界で「勝ち負け」にこだわることができるのは、
それで生命を失うことがないからである。
そこにあるのは、万が一負けてしまっても
本人の努力次第でもう一度挑戦することができる幸せな世界だ
ところが、忍術にしろ内家拳にしろ「負ける」ということは
「生き延びることができない」ことを意味している。
老師の笑顔は子どもが喜んでいたせいだけではない。
今まで老師のもとに通っていて、
忍術で学んだ技を一切見せなかった私への満足もあった。
たとえば、身体中汗でぐっしょりになってサンドバッグをひたすら叩く。
これは見るからに一生懸命だが、命懸けではない。
一生懸命サンドバッグを叩くという行為は、
生死の際で自分の命を救うことに必ずしも結びついていないからである。
一生懸命になった人間が皆生き残れるのなら問題はないが、
そうでないから厄介なのだ。
「良い」と「悪い」は一方の在り方が、
そのまま他方の在り方を支えているひとつの対概念であり、
どちらか一方では存在しえないものだ。
だから「中庸」とはあっちとこっちに存在する「良い/悪い」の
中間点を探す作業ではない。
「良い/悪い」の両方が同時に存在している地平を探すこと、
それが「中庸」を見出すということなのだ。
「仙人入門」 程 聖龍 (著)
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【著者】 程聖龍 (てい・せいりゅう)
山梨県出身。
幼少より甲賀流忍術の師のもとで暮らし、
長年にわたり台湾、香港、中国本土において
中国武術・内家拳、および仙術の修行を行う。
内家拳八卦掌においては、
日本人唯一の武門四代目を継承、程聖龍の名を受ける。
東京をはじめ世界で中国武術の指導を行う第一人者。
程聖龍国術舘舘長。
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